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シラネアオイ

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9月8日
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藤沢でのグループ展・「漣の会」に、多くの方々にお越しいただき、まことにありがとうございました。

 

近頃、私自身が絵の制作にのぞむ姿勢において、再確認しなければならないと思い返していることがあります。

それは“私自身が、「絵というものには強い力があると感じていたのは、

「現実では不可能かもしれないが、絵の中では可能な世界がある」からではなかったか”ということです。

 

少年時代に漫画にのめり込んでいた私にとって、漫画は魅力ある世界であると同時に、

(その世界にどっぷり浸かることは)どこかに現実逃避するための世界じゃないか、という後ろめたさがありました。

その反動のため、「いつまでも虚構の世界に浸っていてはいけない。」と、(ある時期)私は漫画の世界を退けようとしていました。

 

しかし、歳を重ねて読み返してみると、確かにくだらない子供だましの世界に浸っていたとしか思えない作品(世界観)も

少なくありませんでしたが、夢中になったいくつかの作品には、たしかに「人間としてあってほしい理想(人・社会)」を、

せめて自分の表現の中で具現化しようとした作品が少なからずあったことを再認識しています。

 

そうした作品を生んだ作家には、現実の人間社会を冷静に見つめる視点と、「このままではいけない」という焦燥感と、

その問題を自分の作品の中では、なんとか昇華して理想を反映した世界観を表明し、他者にも共感を得られないか、

という意思と情熱があるように感じられるのです。

 

「空想(虚構)である漫画の世界は卒業しなければならない」という観点は、あまりに単純すぎて間違っていました。

問題は「虚構の質」だったのです。(宮崎駿氏は「理想のない現実主義者ってのは最低だからね」と言ってましたっけ)

 

私たちの世代は、虚構の中で育ってきた第一世代のような気がします。

虚構にどっぷり浸かって、虚構に憧れて虚構を再生産している作家の作品の中に、私は魅力を感じることはできません。

現実に触れて、現実をなんとかしたいと思いつつ、自分の力のなさに絶望して、せめて自分の表現の中には、

その世界観を反映させたい、と思って創られた作品にだけ、「虚構の魅力」が宿るのではないか、と今の私は考え始めています。

 

(その意味で結局、夏目漱石が「草枕」の冒頭で言っていたことと同じ結論にたどりついただけなんですけれども)